月形 潔

月形について語るには、幕末の政情との関連も述
べる必要があるだろう。幕末史において筑前勤皇
党に月形ありとは知る人ぞ知るであって、月形潔
の従兄月形洗蔵は、この勤皇ゆえに福岡枡木屋
の町獄で斬られた勤皇党の領袖である。月形潔は
、この洗蔵の叔父月形健の長男であって、洗蔵と
はすなわち従兄弟の関係にある。
潔は弘化4年(1847)6月27日の生まれで、幼名
を直吉、後に修平、又七郎と改め、篁村と号した。
洗蔵が斬られた時は一族として連座入獄し、危うく
処刑を免れた1人である。
従兄洗蔵の処刑をまのあたりに見、自ら入獄の辛
酸をなめた潔が、福岡藩権少参事に挙げられ、司
樺戸集治監初代典獄 月形 潔
法省8等出仕、東京裁判所小検事を経て内務省御用掛、準奏任権少書記官に、そ
うして明治14年9月 北海道に初めて設置された流刑監獄・樺戸集治監 初代典獄
に就任するのであるが、そこに描かれる半生の軌跡は、幕末維新史に深いつなが
りをもっており、樺戸集治監典獄の治績は、囚徒による北海道開拓の礎をなしたも
ので、そのほとばしる血脈を開国日本の土壌に惜しみなく献げるものであった。
この由緒ある月形一族の家系の概略は、次のとおりである。
月形家は、筑前国黒田候の世臣として、3代月形六右衛門有禧の代まで藩料理
方であった。
5代月形深蔵は、かつて昌平黌で教鞭をとった古賀精里の門人として宋学を学ん
でおり、大義名分を尊ぶ学風を身につけた、いわゆる朱子勤王の出である。
深蔵は藩校指南見習、赤間駅茶屋奉行、馬廻組を勤めたのち隠居し、子弟の儒
学指南に専念している。

6代洗蔵は、嘉永3年父の隠居と同時に家督を継ぎ、世禄百石、馬廻組となって
おり、安政3年から5年まで丸2年、宗像郡大島の定番に出仕している。
ここまでは、渡辺崋山、高野長英なみの国際感覚でのぞんだ1正義派藩士の格
であったが、万延元年3月3日桜田門外の変を契機として、筑前藩内での勤王党
の尊王斥覇の運動がにわかに活発化するに及び、憂国の士としての洗蔵の行動
が始まっている。当時としては最も激しい行動派へとエスカレートしてゆくのである。
桜田門外の変によりおとがめを受けた御三家の動揺はもとより、尊王攘夷が騒然
として全国津々浦々に及び、威命振るわぬ老中安藤信正は、筑前国福岡藩主黒
田候に、同年7月7日参府方を支持している。藩内ではこの藩主参勤の可否をめぐ
り議論が沸騰し、藩主より意見ある者は申出るよう異例の直書が発せられている。
これに対し直ちに謁見を願い出たのが、この洗蔵と梅津一、城武平で、洗蔵らは参
勤の中止を説くとともに「有司の人へ対し、万々が一にも桜田騒動に似寄候様の儀
起り候如く成行候ては、決して不相済、又大塩平八郎騒動の様なる儀をも企申候
ては」と比喩、切諫とはいえ身分を超えた僭上の沙汰で、当時の常識からいって過
激ともいえる言辞を述べている。しかし結局、その率直な建白は採納されるどころ
か、基本的には佐幕に立つ藩主の嫌うところとなり、藩政誹謗の罪人として同11
月勤王党の自重謹慎が命じられている。そして翌文久元年5月7日、次のとおり刑
せられたのである。

   月形 格
 名跡断絶 立花吉右衛門に御預
 追て名跡四人十六石御無足組に被召出

月形格以下10人は勤王党の主要メンバーであったので、大きな打撃を受けたわ
けである。洗蔵は中老立花吉右衛門の知行地である筑紫郡古賀村に2年後の文
久3年6月まで牢居、藩の大赦で翌年5月罪を免ぜられることにより、同年7月末
隠居の身で町方詮議兼町方吟味役に任ぜられている。過激派の頭目とされた洗
蔵への意外に早急な赦免は、まことに奇異にみられようが、これは猫の眼のごと
く変転する政情によるもので、藩内勤王派の突き上げがあっても、本質的に尊王
攘夷を正面から受入れることのできぬ歯切れの悪さがそこにあったのである。
しかし刻々と変動する情勢は、心情的な佐幕で時をかせぐことが許されず、政治
路線の明確化が激しく求められることになった。それは文久2年春、意外にも参勤
途上、先発の家老が京で攘夷の内勅を受け、同年7月には姻族にあたる佐幕派
の二条関白家から、薩長とともに国事周旋方の内勅を受けることによってであっ
た。このため藩主長溥は、公武合体をめざす筑後、薩摩、肥前の3藩連合路線の
結成と強化に動くのである。洗蔵の再登用は、その突破口である薩長和解の用兵
としてであった。
月形一門は深蔵、洗蔵、潔と3代にわたり勤王に奉じており、潔も「朝廷其の功(
洗蔵を指す)を追賞し正四位を贈る、君(潔を指す)同志に応じ大義を唱道し、その
名頗る著わる」と記されている。

潔は若くして福岡藩権少参事(県の司法警察事務を掌握するスタッフの1人であ
る)に推され、間もなく与えられた役目は、福岡藩贋札事件という明治初代我が国
の各府藩県で起こった贋札事件中、清国人竹渓らの贋札事件とともに最も政治的
影響を与えた事件の処理であった。幕末から維新にかけ、各藩の財政的窮乏は
著しく、最も流通して通貨価値位の基準とされていた二分金の私鋳がなされ、流通
して通貨の12分の2程度といわれる贋貨が、各地市場に氾濫し、列国公使から厳
重な警告抗議が出るほどで、明治2年7月「外国人所有の贋悪貨引換に関する5
ヶ条」を定めるなど、国際問題になっていた。また国内対策としては、明治3年6月
偽造宝貨律を定め、同年7月2日各府藩県に達しているが、これが直ちに福岡藩
に適用されることになったのである。
しかし、やがてこの月形に大きな転機と、その実力を遺憾なく発揮できる場が与え
られるのである。それは西南の役が起り警視庁の巡査部隊の1隊長として薩軍討
伐に出征し、西郷城山陣没の際抜群の功ありとされ、準奏任官内務省御用掛に任
じられてからである。内務省の中枢に抜てきされた月形の任務は他でもなく、北海
道開拓についての要員としてであった。西南の役後、賊徒始末のあとに残る我が
国の内政問題は、どのように考えても、明治維新からの国是である北海道開拓で
あり、それに伴うロシヤの南下阻止策であって、これは何にも増して緊要の最重点
施策であった。明治維新政府の北海道対策は、この西南の役始末の時点におい
ても、かなり具体案として提示されているものであった。
萩の乱等の後、政府より諮問を受けた開拓使長官黒田清隆は、根室支庁にその
用地を選定させており、その答申として千島の志古丹、国後、得撫の3島に移し、「
監倉は木屋角組、警部に修身を講ぜしめ、新聞も読み聞かせ、維新による時勢の
趨運を了知習熟させ誤まれる反乱の前非を悔悟せしめるよう指導、満役の後は帰
郷の念を絶たしめ、永く北海道の良民とするよう訓戒勧輸する(公文編年禄)」とい
う教化策まで付されていたが、これは採納されなかった。明治12年に至って内務
卿伊藤博文が「本道ハ天候風土ノ諸道ノ等宜二非ルモ延袤数百里尤モ肥沃ノ土
壌ナレハ遺犯ノ科シテ之ヲ墾起シ或ハ鉱山ニ役シ冱寒凝固ノ日ハ当応ノ座作ニ服
シ流内及ヒ徒刑人ノ如キ各自規制ニ由テ放囲ノ後或ハ耕耘シ或ハ工業ヲ営マシメ
漸次生歯ノ繁殖ヲ期セサル可カラス」
と、太政大臣三条実美に伺書の形式で出さ
れたものが公式案となるのである。
在任4か年の月形潔の生き方には、北海道開拓への不滅の執念が読み取られる
のである。
しかし、まだ39歳の男盛りである月形に、ひそかに病魔がとりついていたことを、
誰が予測したであろうか。明治18年8月、心労と寒さによるものであろう。肺患にむ
しばまれた月形は、ついに典獄の職に耐えずと自らの判断し、この地を去ることに
なるのである。監獄波止場から小舟に乗り石狩川を下る月形の心境は、察するに
余りあるものがあったろう。
35歳で初代典獄に就任、村人より開村の父とあがめられ、囚徒とは典獄部屋敷(
官舎)ができるまで雑魚寝したばかりか、東京出張の時にはいつも土産を買ってく
るなど、父のごとく親しまれ(寺本界雄『樺戸監獄史話』)、敬慕されていた。
また、典獄の職にあるとともに、樺戸、雨竜、上川の3郡の郡長として、この地方の
行政官としては最高の地位を兼ねた人物でもあった。
惜しまれながら去った月形は、郷里の福岡県那賀郡住吉村で長い養生を重ね、そ
の間一粒種の実子七郎が明治23年12月7日に生まれる(入村した時は妻磯と
養子の梓、満であった)までに回復しながら、そのかいもなく明治27年1月8日、
48歳の若さで永眠したのである。
月形は、再び内務省に戻り長生きをしたとすれば、1典獄に留まる人物ではなく、
相当の高官が約束されていた人だけに、内務省の上司はもとより、監獄界、月形
村民からも深い哀悼の意が捧げられ、そのゆかりの地月形村北漸寺境内に、記
念碑が建立せられたのである。その碑文(原文は漢文)は次のとおりである。

 月形君、名は潔、篁邨と号す。筑前福岡の人なり。世に儒者として黒田候に仕
 う。父は健と日い兄は洗蔵と日う。洗蔵は人と為り慷慨、義を好み、幕府の未だ
 至らざるに際し諸藩勤王の士と交わる。奔走するところ有るも終に国事のため
 に斃る。朝廷其の功を追賞し従四位を贈る。君同志に応じ大義を唱導し、その名
 頗る著わる。首め福岡藩、権少参事に挙げ、その後司法省八等出仕、東京裁判
 所小検事を歴任し内務省に御用掛諸職を奏任され、明治十四年八月樺戸集治
 監典獄に遷さる。これに先だち内務省北海道に集治監を建つる有り、之が議によ
 り君を往かしめて其の地を相するに石狩国樺戸を以てす。内務卿之を納れ、ここ
 に至り、現職を拝し獄舎経営し年を越えて竣功す。当時樺戸の地たるや荊榛瀰
 望にして鉞斤入らず挙げて荒蕪に委ね加うるに冬期を以てす。酷寒にして人住
 むを得べきに非ざるなり。君命を受け専ら力を獄政に用い蕪を苅り莽を闢き在
 監の囚徒をして執役せしめ、いくばくを亡う。地区豁開され移住する者、日々に
 稠く蔚然として一邨落を為す。開拓使、君の労を多とし月形村と命名す。君益々
 感奮勤苦し効果大いに彰わる。居ること五年職を罷め、福岡に還りて大いに公
 共事業に力を竭し、二十七年一月八日病を以て歿す。享年四十八歳なり。頃日
 、月形村の民、胥いに謀り将に君が為に碑を建て以て其の功を朽ちざらんとす。
 余に属して之を誌さしむ余君の兄弟と蒿誼あり辞すべからず、乃ちその平生を
 概記し以て之を授く。

   明治三十三年一月八日
          内務大臣海軍大将正二位勲一等侯爵     西郷 従道 篆額
          定室制度調査局副総裁正二位勲一等伯爵  土方 久元 撰文
          前樺戸集治監教誨師北漸第一世秋葉現住  鴻   春倪 書

篆額碑文はこのように明治33年に授けられているが、建碑はその後に海賀直常
ら7人が発起人となり、小樽から自然石を取り寄せ、静岡県秋葉寺にいる鴻春倪
師の大字札書で明治39年秋除幕ひ露されている。一国の著名な現職大臣が1
典獄を彰して建てた石碑に篆額を贈ったのは、今日までこれが唯一のものであろ
う。
月形らの労苦を偲ぶ大銘碑は、更に近年の昭和36年9月2日、石狩平野を一望
に収める円山公園山腹に「北海道開拓八代典獄祈念之碑」として建立されている。
そしてその遺徳のもとに、再びこの地に刑務所設置という町民の声を結集、全国
でもまれな刑務所の誘致運動が熱心に続けられて、ついに月形刑務所が実現し
た。北辺開拓の国事に捧げた九州男児月形の執念は、以来幾星霜となろうか。
多くの干ばつ、はん濫に耐えて、不死身のごとく実っている。刑務所誘致運動もま
たその歴史の声であった。
余命いくばくもない月形潔の自らへの姿勢には、いっそう厳しいものがあった。
率先垂範が永住の決意であったろう、前年である明治17年8月19日、戸籍を福
岡県早良郡谷村573番地から北海道石狩樺戸郡月形村字富本町番外地の典
獄屋敷に移しているのである。
月形町の町名の由来は、許可の年月日に若干の差異があるが、月形村史も沿革
誌も、どちらも月形潔の姓をもってこれにあてたという点は同じである。

〔月形村史〕
明治十四年、月形潔、樺戸集治監第一次の典獄として赴任するや本村の開発に
鋭意努力せられ短日月の間に市街の繁栄を見るに至る。而己ならず氏は高潔の
士なりしを以て住人其の徳を仰慕し其の姓を採りて月形村とすることに決し内務省
に出願明治十四年九月二日許可を得村名を月形村と称す〔後略〕
〔月形村沿革誌〕
数日後一封ノ信書着ス被見スルニ村名ノ件ナリ貴地方ハ元月形君ノ尽力ニテ開
発セリ故ニ月形村と称シテハ如何ニヤトノ文意ナリ予ハ典獄代理トシテ答フルニ
村名等ハ行政官ノ事ナレハ予等司法ニ属スル者ノ預ルヘキニ非ラサルモ月形村
ト命名セラルレハ月形潔ニ於テ満足ナルハ勿論ニシテ素ヨリ当方ニハ異存ナキ旨
ヲ返答セリ〔後略〕

なお、月形典獄夫人磯は、札比内方面に野桑があることを知り、明治16年率先し
て蚕の飼育を始めている。典獄夫人は、一般職員の家庭にも勧め、後には全村に
養蚕が広まったという。水害、冷害の多い農村の副業として歓迎され、大正初期の
ころには年額1万円の収益を得るほどの好成績をみており、月形夫妻と村人、囚
人との心のきずながまことに深かったことが知ることができる。

参考文献 月形町史・月形村史・月形村沿革誌・寺本界雄『樺戸監獄史話』
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